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2007年04月26日

自己沿革06

何だかんだでやっと到着しました、未だJFKですがねわーい(嬉しい顔)
すんげーなぁ〜、空港でかっ!おっさんでかっ!何語喋ってるかわかんね〜!とにかく刺激が一杯です。
イミグレーションに並ぶわけですが異常に人が多い、
到着がアリタリアと同時刻だったらしいです、イタリア人多いです。
この頃は全然英語判らんのですわ俺(今も怪しいですが!)
イミグレーションは無事通過、このときはツアーだったのでJFKで他のツアー参加者(オレの他に2人)と現地添乗員と無事落ち合いました、「お疲れ様でした、あんなことが有ったのに良くぞ来て頂きました。」By添乗員、「もう怖いモン無いっしょ」Byオレ
バスには他のツアーの人達も同乗、日本人ばかりです。
JFKを出発して30分くらいでしょうかマンハッタンに入る手前のデカイ橋から見る沈んで行く太陽は最高に綺麗でした、添乗員曰く「今まで見た中で一番綺麗な夕暮れです、多分明日のお客さんにも同じ事言います」って中々ユーモラス、
っでもってマンハッタンに到着して僕らのホテルへ、シェラトンでした、所謂アメリカンなビッグネームのホテルという感じですね〜、こんな一杯ボタンの有るエレベーター初めてですわ、また早いんだ、耳居たいのね!32階とかだったかな?
高層階って意外と静かなんだね、寂しー感じもするけどゆったりして良かったです、然し食事どうしようかなぁ?夜だし東京在住のN,Yの友達にはあんまり夜出歩くなって言われてたし(80年代後半〜90年代前半は今ほど治安良くなかったです)まぁいっか、腹減ったし、飛行機火を噴くより怖いことはそんなに起らないでしょう?と思ったので少々夜のお散歩、ミッドタウンだし7thAvだし(当時10thAvより先に行っちゃいけないと言われていた)人多いし別段怖いことは無かったです、只何をしているか判らない人チラホラ、そんな中見つけたのは、デリ(デリカテッセン):作り置きのお惣菜を湯煎やウォーマーで保温してあったり、サラダやスープを取っての量り売り、メニューは店によるけど、焼きソバや野菜炒めやら唐揚のチリソース等一見何料理?的なラインナップ、面白い所ではキンパフ(韓国風海苔巻き)、どうも聴くところによると以前は腐ってる物も平気で置いてあった悪評のデリだったがここ数年で真面目なKorean系の人達によって美味い、手軽、安いで評判良いらしいです、デカイ冷蔵庫に飲み物もあるし(飲み物のボトルがまたデカイ)で意外と楽しいですしお腹も膨れます、と言う訳でN,Y初めての食事はデリでお惣菜でした、然もなぜかアジアンテイストわーい(嬉しい顔)まさに多民族都市です。
こんな感じで1日目は終了。

あ!久しぶりの自己沿革記事なので注釈:この記事は僕の15年前位のノンフィクションです。
posted by JJ at 13:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史あり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月26日

自己沿革05

とんとご無沙汰です。
初めての海外だった筈なのになかなか出発すら出来ませんわーい(嬉しい顔)
まぁ前日は舞浜の高級ホテルでゆっくり寝ましたは、全然知らない人と相部屋なんだけど、あんな事故があったので何だか妙な連帯感が有るのね。
でね、朝9:00くらいだったかな全員ロビーに集合して昨日と同じ時間17:00位だったかな?に成田から臨時便飛ばすとアナウンス、
ココまで来ると皆、同意=もう落ちることは無いでしょうとわーい(嬉しい顔)
まぁ確かに。
出発までまたしっかり寝る俺!
成田に着きました、前回火を噴いた飛行機は主翼の横にウィングレットと言って空気抵抗を減らし燃費を効率的に上げる最新鋭の飛行機だったんだけど、今回の機材はノーマル仕様、747だけどね、乗込む前から良い緊張感があったよ、クルー(乗務員)は流石昨日の件で精鋭が集められた様子、素晴らしくキビキビと動き受け答えもハッキリしてる、私仕事出来ますからオーラバリバリのパーサーの方々でした、素直に格好良い!
機体に乗込む際昨日の謝礼金と言うことで全員に封筒に入った¥10,000を手渡し、お金の問題じゃないんだけどね、昨日のホテル代、食事代を考えると大変な出費だね、後の情報に因ると保険で賄われてるらしいのね、そして飛ぶ前の事故と飛んでからの事故だとサービス(保障)の扱いが違うらしいのね、僕らは飛んでからだったから結構手圧かったみたい、航空会社によってはホテル自腹で取って下さいとか振り替えが何時に飛ぶか判らないから空港内で待機している様にとか言う所も有るらしいよ。
まぁ先日も航空機事故があったけど機材とかじゃないよね?
其の航空会社のモラルと誠意が問われると思うわけよ。

さてやっと出発です、この辺余り記憶が定かでないのだけれど多分寝てた(またかい)わーい(嬉しい顔)まぁ一人旅だし、いや、Beefが強烈に不味かったのは覚えてる、先は長いからね〜、13時間のフライトですよ、隣に座った人は昨日ホテルで同じ部屋だった人、この人結構色んな所に行ってるみたいでAirのチケットのみでN,Yに入るらしい、「へぇー」この頃の俺はその辺の事情全然よく判ってないわーい(嬉しい顔)(旅先で見本市とかサミットとかあると人が集まってホテルが取りにくいらしい)N,Y野宿は出来ないだろうしね。

もう15年位前のことだから記憶が定かでないけど13Hがあんまり長くなかった様な気がした、其れでね今でもそうだけどUSAに入国するには日米間の協定でヴィザウェーヴァーと言う制度があって簡易的な質問事項を記入して入国する手筈が取られていた、機内で所定の用紙を貰うのだけれど、USA国民は其れは要らないの、USA以外の外国人にのみ渡される訳よ、それでね前述したとおりバリバリ仕事できそうなキャビンアテンダントが其の用紙を皆に配っているのですよ、僕の隣の人も普通に貰ってた、っで僕の番なんだけど其のCA様俺に「US Citizen ?」ってネイティヴに質問するのよ、
俺「いいえ、日本人です。」って、CA様あんた今失礼しましたって言いつつもう一回俺の顔見返したね!
まぁしゃぁないか機内には色んな人がいるから。
そろそろ到着です。やっと到着です。
posted by JJ at 12:33| Comment(2) | TrackBack(1) | 歴史あり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月07日

自己沿革04

続き、いやーびっくりしました勢いよく燃える炎ってあんな音するんだがく〜(落胆した顔)バスに揺られどの位でしょうか?ハッキリ覚えていません、多分滑走路のTerminalから一番離れた所からバスのピックアップだったのでしょう。
成田Terminal1に到着です。
ココでたくましい人を発見exclamation×2あの状況において自分の全ての機内持ち込み荷物を持って非難していた男exclamationその飛行機は香港発⇒東京経由⇒JFK行きでした、その方はChineseの方でした。

我々は皆先ほど出発したはずのTerminalへ逆戻りです、ココで少々問題発生です、乗客である僕たちは一度日本国を出国しています、っが今の僕たちは緊急着陸により強制的にTerminalに戻されたため再入国をしなければいけない状態にあります、ので出て行くのみの一方通行である筈の出国Gateから再入場です、仮の再入国用紙を渡され日本へ入国(変な話(笑)=良い経験(笑
まぁ先ほどまでまさに直面していた大問題に比べれば“へ”でも有りませんが(笑

倫理的に言うと翌日再出国する迄我々は地球上には居ない状態なのかなぁ?
まぁ、今見ると当時のパスポートも変な状態なんですけど(笑、

っで話を本題にTerminalの中でTVが、時刻は22:00頃でしょうか?
当時のニュースステーションで久米さんが臨時ニュース読んでます。俺思う⇒「あ〜この飛行機エンジンから火噴いてるのねーどんっ(衝撃)」って俺らが乗ってた飛行機ジャンか〜exclamation×2

オイオイ着地する前から火吹いてんじゃねーか〜
あれ乗ってたのよ〜、あ〜後になってからゾッとするあせあせ(飛び散る汗)

この後は舞浜のH○ltonとS○eratonに振り分けですは!
家に電話したら大騒ぎだったよわーい(嬉しい顔)特に父は航空会社に電話してた、母は意外と冷静、まぁ今日は取り敢えず寝ますは眠い(睡眠)
posted by JJ at 21:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史あり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月05日

自己沿革03

1991/09/19の出来事です。ココからはチョッとだけダイハードみたい、
※続き⇒飛行機機中です、はい!

一通り緊急着陸時の説明が終わった後、飛行機は豪雨の中台風小雨成田に向けて進路を取ります、後で聴いた話なのだが成田上空で40分位燃料を廃棄していた様です、段々と成田が近づき皆姿勢を低くしてランディングに備えます機内に居ても確実に着陸態勢に入っていることは体感出来るように成って来ました、そろそろ成田の滑走路が見えようかという頃、「オイオイ何か外赤っぽくね〜???」見えたよ成田AirportがそしてTerminalに近い滑走路の先の方には明らかにこの飛行機を待ち構えているであろう20台以上の消防車がぁ〜どんっ(衝撃) でももう自分ではどうしようも出来ないのねわーい(嬉しい顔)取り敢えず着陸を待ちます、暫くして着陸完了、勿論頭を覆い隠しながらの体制で、飛行機は何事も無かったかの様にSTOP、でもね何か様子が変、まぁ既に十分変なんだけど、飛行場なのに周りに飛行機が居ない!はるか遠くの方にTerminalも見える、っが皆一斉に拍手喝采、俺の隣の席に座ってたアジア系のお姉ちゃんなんか泣いてたし、その隣の人は皆にガム配ってるしexclamationここからです緊急を要するようになる事が明らかになるのは、みんなの安堵の顔が一転します、機内の電気は全て消灯され足元の非常灯のみが点灯させられ「左側のエンジンの一つが爆発の恐れが有るので右側の前方の出口から速やかに脱出する様に!」もうそりゃ大変です、降機ではなく脱出なのです、大雨台風小雨の中、脱出用シューター(滑り台)で機外へ、雨降ってるから滑る滑る、(後で調べたら乗務員は飛行機の緊急脱出の際は90秒以内に乗客全員を機外に出さなくてはいけないらしい)着地したらデカイ声で「エンジンが爆発するからなるべく飛行機から離れて〜」って自分の足で滑走路を走るとは思わなかったよどんっ(衝撃)エンジンとは反対側に着地したんだけど炎の音がゴーゴー言ってたのを鮮明に覚えているよ、そこからは只ひたすら走ったね〜ダッシュ(走り出すさま)爆発でもされたら洒落んならん、そんなときでも消防士って勇敢だねーその爆発しそうなエンジンに近づいて消火活動を行うのですから。
そんなこんなで取り敢えず鎮火、僕らは空港敷地内に集まりAirportリムジンにピックアップされTerminalへ第一ね、俺どういう訳かブランケットを被ってバスバスへ雨に濡れるのが嫌だという理由からでしょうか?意外と冷静、それ以外の荷物は機内だけどわーい(嬉しい顔)
今日はココまで、あぁっ!マジでノンフィクションよ!
posted by JJ at 12:56| Comment(8) | TrackBack(0) | 歴史あり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月02日

自己沿革02

自己沿革続き・・・何処まで続くのでしょうか。

そんなこんなで19歳のときお昼はイタリアンのレストランで夜は呑み屋さんでアルバイトを、合間の時間に英会話を毎日50分(今では錆付いてるんですけど、勿体無い)そんなこんなで既に15年前ですよ、実家に居たので半年もそんな生活をしていると結構お金貯まる訳ですよ、そして英会話も国内(Domestic)でも限界を感じるんですよ、そしてひょんなことから1991年の夏頃漠然と海外に行きたいと思いはじめるんです、まぁ知り合いが行った事もあったし友達の地元だと言うこともあり、N,Y行きを決めるわけです。
目的は色々見るためという非常に曖昧かつ無いに等しい、
先ずパスポートを取り旅行会社に申し込みをし所謂パッケージで行く手はずを採りました、そしてです1991/09/19 17:00頃成田にて出発するべく飛行機に乗込み前を飛んで行く飛行機たちを眺めつつ13時間後には違う国かぁ〜とか感慨にふけってた訳ですが離陸飛行機直前に寝てました眠い(睡眠)・・・・!
今思うとその日は折からの台風台風で、余り機種を上げずに飛行機は飛んでいた様に思います、1時間過ぎた辺りでしょうか?
お食事です、初めてのアメリカキャリアの機内食、CA達がカートを持って来てと思っていたのですが、そのままギャレーに逆戻り
(さぁココから大変よ!!)
何か雰囲気がおかしい、アナウンスによると今仙台辺りらしい、
更にアナウンスはこう言うのよ⇒「当機は何ら異常はありませんが成田に引き返します」オイっ、異常ないのに何で返るんだよ??
絶対おかしい、まぁ良いや墜落しても俺は死なないなぁって変な自信があったので其れから暫く寝るんだよね俺!

でね暫くして目を覚ますと、CAが機内走ってんじゃねえか〜
ねぇ何?一体何?CAが「英語がしっかり判る方はドア付近の席にお集まり下さい」ってオイオイ異常ないじゃないYo!パンチ
其れから其れから、「ベルトをしっかり締めて両手で足首を掴んで若しくは頭を被うように腕を組んで緊急着陸に備えて下さい」
ってただ事じゃないよね?ココからは引張りますよ〜続きはもう暫く後で、この日記はノンフィクションです!
posted by JJ at 21:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史あり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月27日

自己沿革01

随分間が空いてしまいましたが自己の生い立ちをツラツラと、
そんなこんなで我が家では小さい頃から転向や引越しが頻繁に在りました、小学校は合計5校行ってましたね、最短で6ヶ月なんて所もありました。
中学は普通に3年間同じ学校へその頃の同級生とは最近Mixiで21年ぶりにコンタクトが取れたりいやはや凄い時代になりました。
まぁこの頃までは野球をやったりバレーボールをやったりごく普通の中学生でしたねぇ、
さてと高校に入るわけですが都内の私立高校、なんと制服が無い!この頃からですかねぇ御洋服買い始めたのは、中学の時の親友が無類の御洋服好きの影響もあって今思えば良くそんな格好で学校行ってたなぁ〜(笑
平凡な高校生活を送るわけですが3年のときに進路について漠然としか考えてなかったんですよね、全然考えてなかった其処で親に言われるがままに予備校に行き毎日したくも無い勉強を、まぁしてないんですけどね!駄目ジャン!そんな予備校時代決定的な人と出会う訳ですよ、○×○氏←(カタカナ読みでそのまんま表意文字です)彼はN,Yからお洋服のお仕事でTokyoに来ていたわけですが、何かひょんなことから意気投合、毎週末クラブ三昧、勉強なんかする分けないんですよね〜、
何でそんなことになっちゃったか?
其れはですね興味の無い勉強に身が入る分けない⇒今まで思いもしない別の世界が開かれたわけですよ。
Tokyoですら、こんな面白い所があるんだってね。
この○×○氏の説明をチョコっと!
出身はジャマイカ、お父さんはジャマイカ人、お母さんはスペイン人のハーフ(本人はダブルって言ってた)
家族でN,Yに移住、実家はブルックリン、FITで学びヘアメイクからお洋服のパターン、Tokyo在住時はモデルもやってましたねぇ〜
まぁこんな人と出会ってしまったので何の目的も無かった僕は「世界は広い、色んなものを見なきゃ何故其れが面白くて、面白くないものは何故面白くないのか」を見極めるべく19歳位から好奇心だけを頼りに思う存分行動起こすのです。
東京がどれだけ凄い所かって事を今後味わうことになるですがね、
チト長いので今日はこの辺で。
posted by JJ at 12:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史あり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月09日

自己沿革00

遅ればせながら自己紹介

少しずつ生立ちを。
1971年に砂丘のある地にて長男として生を受ける。
父は自由奔放かつ家族を思う余り自前で薬や飼料、
お茶等を販売する根っからの商売人の家に育つ。
母はそんな父に文句を言いつつ支えつつ今思えば母への感謝は
してもし足りないくらいである。

当時片田舎の一軒家に住んでいた我が家族であった、

後々大きな意味で2つの事を意味するが3歳にてクラブデビューする。
もう一方のクラブデビューは16歳頃だったかなぁ?(後述)

今思うと父の商売はそんなに順調ではなかった、
そんな家庭であったので小さなトラブルは日常茶飯事であった、

※かる〜く1発エピソードを!
当時未だ幼かった私、父と母の喧嘩である、父は酔っ払っていた、
私が次の瞬間母を見たとき母はTVTV(勿論小型14インチ位)を抱えていた(うっそ〜と思った)
いや待て母はTVを投げ様としたのではない、父が投げたTVを受け止めていた様だ!
今ならDVな上に事件に発展しそうだなぁ!
これまだ軽いほうです(笑!


そんなファンキーこの上ないラテン系な家庭で幼少期を過ごす。

因みに母は国内だけど南方の出身、父は砂漠のある国内出身であるが何故か目が緑で白髪でオールバック見た目はかなりロシア系

本当に色々な経験をして過ごしたと思います、父、母共に
感謝!いやぁ多謝であります。

然しながら私は両親の愛情を一杯に感じ、
余り曲がらずに育ったつもりです(笑
posted by JJ at 10:41| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史あり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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